1980年代、本厚木駅から森の里方面への交通機関として「モノレール構想」が立ち上がりましたが、この路線は建設される事なくいわゆる未成線となりました。
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正式な名称は 厚木市都市モノレール。地元ではこの厚木市都市モノレール構想を知る人は多く、有名なルートとしては、森の里線が挙げられます。
森の里にはかつて、青山学院大学の厚木キャンパスが位置していましたが、利便性が悪かったこともこの一因にあり、2001年にこの地を撤退、相模原市淵野辺へ移転する事となりました。決定打ではなかったものの、モノレールの森の里への導入が見込めなくなったことも、結果的にこの一因となってしまったのではないかと思います。さて、この厚木市都市モノレール構想、実は森の里線については、構想検討ルートの一つの案でしかありませんでした。 |
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実際本命と目されていたルートは全部で5ルート。さらに、採算性や実現の可能性を精査し、最終的な報告書として示されたのが、森の里線を含む 3つのルートでした。今回は、この厚木市都市モノレール全体構想に触れつつ、森の里線ルートがどの様なものであったのか紹介していきたいと思います。
このモノレールが構想された昭和50年代後半、他都市と同様に、厚木市においても中心市街地における都市基盤の整備及び郊外での大規模開発によって住宅や事業所等の立地により、県下でも有数の人口急増都市となっていました。当時はモータリゼーションの真っただ中、自動車の普及による交通量の増加は著しいものがあったのです。本厚木駅を中心とする一点集中型の都市形成の中で、厚木地区及びその周辺の道路の混雑が顕在化し、交通機能の低下や 交通事故の多発、生活環境の悪化などの問題が惹起されつつありました。
この対策に資するものとして、厚木市ではモノレールの導入を調査。昭和56年度及び57年度の2箇年にわたり社団法人日本モノレール協会に委託し調査を進めます。厚木市内の交通需要は、中心市街地の厚木地区を核として、ここから、上依知、上荻野、飯山、森の里、相川の5地点へ向かうものが主流となりつつあったわけですが、厚木市都市モノレールは、これら5方面へのルート敷設が検討されていく事となります。
各検討路線案における起点駅は 厚木市中心市街地の小田急線 本厚木駅付近が当初より想定され、ここから各端末駅に向け展開する構想となっています。
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こちらが基本とされた5ルート。 |
それぞれの路線概要としては、
上依知方面ルートが、全長9.8km、駅数13駅程度、駅間距離およそ820m
上荻野方面ルートが、全長8.4km、駅数12駅、駅間距離およそ760m
飯山方面ルートが、全長5.4km、駅数9駅、駅間距離680m
森の里方面ルートが、全長7.7km、駅数12駅程度、駅間距離およそ700m
相川方面ルートが、全長4.9km、駅数8駅程度、駅間距離およそ700m
となっています。
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輸送システムとしては、当時都市モノレールとして 既に主流となっていた、跨座型モノレールでの検討がベースとなっていました。
こちらが、昭和75年を基本とする、検討路線別駅間断面通過人員図です。最も需要が多いと言えるのが、上荻野方面ルートで、一日あたりの需要量は、50,200人、次いで多いのが、上依知方面ルートの 1日あたり約37,700人、今回メインで紹介する森の里ルートは、1日あたり約33400人と、他のルートに比べ突出して多いというわけではありませんでした。
なお、飯山で26,200人、相川ルートで21,100人となっており、この2ルートについては最終の検討ルートからは外れる事となります。
森の里方面ルートの交通需要は3番目、という事となっていますが、他のルートと異なるのが、末端部に位置する新規大規模開発プロジェクトとなっていた森の里。
市中心部からの公共交通上の利便性は良いとは言えず、ここに大規模ニュータウンの他、青山学院大学の6,000人、富士通、電々の5,000人の他、多くの通勤通学需要があった事から、交通上の問題は大きいと言わざるを得ない状況でした。
ここからは導入を想定していた輸送システム、つまりモノレールの規格を紹介します。 |
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輸送システムの検討は、昭和75年ピーク時の一時間あたり3,300人から4,800人程度をベースとして、これをさばけるキャパをイメージし、具体的には、3から4両編成で、一時間当たり5000人前後を輸送できる仕様で検討されます。車両は4両連結固定とし、Mc、M、M、Mcの構成。列車1編成の定員は356人、満員時で640人としています。いずれの構想ルートも、実可動列車数は7列車、必要車両数は、予備編成を含めて32両となっています。
なお、ここから路線ごとの詳細な検討事項となっていきますので、以後は森の里線ルートに絞った解説としていきます。森の里線の詳細設定値としては、時間当たりの輸送需要は4600人を想定。ピーク時は運転間隔を7.5分とし、時間当たり8本運行、一時間当たりの輸送力は、定員ベースで2848人、満員ベースで5120人となっており、最大需要を満たせる設置となっていました。 |
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森の里線ルートの起点は、小田急線 本厚木駅前。ここから、厚木市森の里までの7.7kmを 約12駅程度を配置し結ぶものとして検討が成されていきます。車両を収容、検修する車両基地については長谷地区内の約3haで想定されていました。
603号線沿線は今も多くの田畑が残っている様で、それなりの敷地面積を必要とする車両基地の配置については、他の都市モノレールほど苦慮はしていなかったかもしれません。
なお、本厚木駅付近となる都心側中心部では、基本的に地下駅として検討が成され、全線で単線での敷設が構想されていました。構想上はこの地下にルートを配置する計画であったようです。
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ここからルートは、田村町交差点まで、駅前の通りを真っすぐに進みます。この手前となる中町交差点部には、一つ目の途中駅を配置。グーグルアース上はマイルドに表示しましたが、モノレールルートはこの先の文化会館前交差点位置へは大きく迂回せず、129号線にクロソイドを描きながら合流します。
直後にルートは、現在立体交差となっている道路脇を逸れ、246号線へ。駅で別れた小田急線小田原線と再度並走、恩曽川を越えた直後に第3駅へ。ルートはここで603号線に合流、一瞬ではありますが、ここで帰属道路は246号および603号となります。森の里入口交差点手前には、第4駅を配置。ルートは大きく右に曲がり、以降は603号線に帰属します。
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森の里線とは事実上、この603号線にほとんどを帰属するモノレールルートとなっています。さらに第5駅は、テックランドダイクマヤマダ厚木店が位置している603号線の中央分離帯上に配置。
次の第6駅は、ホンダカーズ厚木愛甲店がある位置の直前に配置。
籠堰橋北側交差点の手前に第7駅。
63号との合流交差点手前の田んぼの真ん中に第8駅。
森の里へと昇りだす手前、小野に第9駅が配置される計画でした。
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西進を続けてきた厚木市都市モノレールルートですが、森の里へ向かうため、ここで大きく右カーブし北側へ進路を変えます。
ここからルートは登坂を登り、森の里地区の玄関口となる若宮橋交差点を目指します。
この位置からの景色だけでも、大規模ニュータウンと言って差し支えない規模で、森の里地区が計画、開発された事がよくわかります。
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若宮橋交差点脇には、森の里地区内に入って一つ目の駅となる、第10駅を配置。スーパー三和 森の里店や 横浜銀行 森の里支店 さらには、森の里病院という名称の病院もあり、恐らくこの地点が森の里のセンター地区という位置付けなのでしょう。
さらに、森の里センター位置を過ぎ、厚木西高入口交差点脇に 第11駅。青山学院大学厚木キャンパス撤退の話題で よく名前の挙がる この厚木市都市モノレール、肝心となる青学最寄り駅が、以外にも10駅、11駅共に離れているのが気になります。11駅から直接
ペデストリアンデッキ等を接続すれば話は別そうです。
なお、青学厚木キャンパスの跡地は、その日産が買収し、現在は日産の 日産先進技術開発センター 日産アドバンスドテクノロジーセンター NATCとなっています。
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最後となる あつぎつつじの丘公園脇に 森の里ルート終点となる 第12駅が配置されます。
モノレール軌道はあくまで道路上、具体的には中央分離帯上に配置されたはずなので、この第12駅、ドクターシーラボ 森の里テクノプラザ および あつぎつつじの丘公園 南側 第2駐車場の 間付近に 配置されていたものと考えられます。
さて、ここまで厚木市都市モノレールの概要と、その構想ルートについて紹介してきました。厚木市都市モノレールが構想された昭和58年といえば、日本の多くの都市で都市モノレールが調査検討されていた時代。厚木市都市モノレールもまた、同様に構想された路線でした。 |
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厚木市都市モノレールは意外にも、他都市と比べ 比較的要望度合いの大きかった構想路線でしたが、現実が物語っている様に、結果的に建設される事はありませんでした。
当時構想されたモノレール路線のうち、大阪や千葉、多摩等は実際に建設されているわけですので、タイミングというものもあったのだと思いますが、この厚木市都市モノレールも
もしかしたら建設されていたかもしれないモノレールと考えると、なんだか不思議な感覚になります。たらればを語るときりがないと思いますのでこのあたりで。
実際にあった計画として、今回は厚木市都市モノレールを紹介しました。 |
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