1.アルウェーグ社とフューリンゲン試験場
アルウェーグ式モノレール(発音はアルベーク)は、跨座式モノレールの一形態であり、現在稼働中および今後開業予定の多くのモノレールシステムに採用されています。跨座式モノレールに関する特許は、1930年代にドイツの発明家ロッシャーによって取得され、1940年代にはその技術基盤が確立されていました。第二次世界大戦後、モノレール技術の推進において著名なアクセル・レナルト・ウェナーグレン氏がこの技術に着目し、事業化に着手しました。1951年には、ウェナーグレン氏の主導のもとで専門的な研究チームが編成され、本格的な開発が開始されました。
ケルン・フューリンゲン試験場は、アルウェーグ式モノレールが現在、世界中のモノレールシステムにおいて主流を占めるに至った起源であり、まさに「モノレール技術の聖地」と称されるにふさわしい場所です。ウェナーグレン氏からの資金提供を背景に、1951年には試験線の開発、設計、および建設が本格化しました。ドイツのケルン・フューリンゲンに所在する広大な敷地内には、全長1.7kmにわたるサーキット状の試験線が設けられました。この初期試験線は、過酷な条件や高負荷に耐えうる設計が施され、その傾斜角度は最大45度に達します。また、時速130km以上の走行を可能にするため、カーブの半径は135mに設定されています。
初の試験車両は、ドイツの著名な鉄道技術者であるゲオルク・ホルツァーとヨーゼフ・ヒンケンの指導のもと、精密な設計と高度な技術を駆使して開発されました。この車両は、アルウェーグ式モノレールの実用化に向けた初の重要なステップであり、実験的な性質を持つ2.5分の1スケールの縮小モデルとして製作されました。1952年10月8日に実施された初公開の試運転では、多くの技術者や専門家が注目する中、車両の性能と技術的可能性が初めて実際に検証されました。の試験車両は、後の試験において、時速160kmから最大で時速180kmに達したと記録されています。この試験結果を基に、さらなる技術改良と実用化に向けた開発が加速することとなり、アルウェーグ式モノレールがその後のモノレール技術の礎となる重要な一歩を踏み出した瞬間となりました。
現在、多くのモノレールの歴史資料に示されている最高速度は、この時の時速160kmという数字が基準として使用されているようです。アクセル・レナルト・ウェナーグレン氏らは、この後もいくつかの試験車両を開発・試験していきますが、試験の初期段階からすでに1分の1スケールの車両を試験する計画を明言し、実際にそれを実現しました。その後、試験はさらに実用サイズへとスケールアップされ、1956年には新たに約2kmの試験線が完成します。この新たな試験線は、前の試験線とは異なり、逆L字型の単線として敷設されました。現在では、ほとんどのアルウェーグ関連施設は残っていませんが、このフルスケール試験線の跡地には、かつて試験線の軌道が通過していたことを示すモニュメントが残されています。
このフルサイズの試験線では、その後トリノ博覧会で使用されたモノレール車両の試験も実施されました。この車両は「トリノモデル1961型」と呼ばれました。フューリンゲン試験場での試験は事実上これが最後となりました。出資者であるウェナーグレン氏の他界により、アルウェーグ社は資金調達が難しくなり、事業活動を継続することが困難になりました。しかし、トリノでのアルウェーグ式モノレールの運用や、ここでの開発は、その後のシアトルやディズニーでのモノレール運用において、多くの基盤を築きました。
シアトル、トリノ、ディズニーでのアルウェーグ式モノレールの導入は、当初、アルウェーグ社にとって有望な兆しと見なされていました。しかしながら、その後の展開は必ずしも順調とはいきませんでした。アルウェーグ式モノレールは、その斬新なデザインと未来的な外観により、1950年代から1960年代にかけて世界的な注目を集めましたが、広範な普及には至りませんでした。その要因として、都市景観や文化的景観に与える影響が多くの都市において容認されなかったこと、加えて、既存の鉄道インフラとの互換性が十分ではなかったことが挙げられます。
アルウェーグ式モノレールに限らず、従来の二条式鉄道と比較した場合、特に課題となったのが転轍機の設計でした。跨座式モノレールでは進路変更の際にレール全体を移動させる必要がありましたが、誤作動が発生した場合、対向するレールに衝突するリスクが高く、特に高架設置の場合は危険性が顕著でした。また、当時の跨座式モノレールの分岐器は、切り替えに10秒から20秒程度を要することが一般的であり、この遅延が都市部における列車の高密度運行には適さないとされていました。さらに、駆動装置が客室内に突き出していたため、車両床を完全にフラットにすることが困難で、これが車内空間の圧迫を招き、乗客の配置にも制約が生じるなど、複数の技術的課題が存在しました。
日本での導入後、これらの課題は関節可撓式転轍機の開発や、車内空間の有効活用を実現する都市型モノレールの開発によって解決されました。これにより、日本においてアルウェーグ式モノレールは、多くの都市で採用される交通システムとして定着していきました。
一方、アルウェーグ式モノレールが初めて開発されたフューリンゲン試験場では、現在、その跡地の大部分が人造湖となり、当時の試験線の痕跡はほとんど残存していません。試験線の遺構、特に支柱などの関連構造物が残存している可能性はありますが、それらは既に水中に没していると考えられます。フューリンガー湖は100ヘクタールの広さを持つ人造湖で、その一部は国際ボートコースとして利用され、1998年には世界ボート選手権の会場ともなりました。初期の試験線であるサーキット線の大部分は、現在のフューリンガー湖の水面下に位置していたため、車両の開発や製造を行った施設や車庫線もこの周辺に存在していたと推測されます。当時のアルウェーグ式モノレールに関する資料には、この車庫線の分岐器が記録されています。湖の対岸には観測用の建屋があり、当時の写真に映り込んでいる塔もこの位置にあったものです。
1961年にウェナーグレン氏が逝去したことで、ALWEG社は経済的に衰退に向かいました。最終的に同社はクルップ社※に引き継がれましたが、1960年代後半には、当時のALWEG社の従業員は数名のみが残存している状態でした。試験線は1967年に解体され、その後、フューリンガー湖とレクリエーションエリアの建設が進められ、現在に至っています。
※クルップ社(Krupp):ドイツの重工業企業で、特に鉄鋼、軍需、機械製造などの分野で長い歴史を持つ企業です。19世紀初頭にフリードリヒ・クルップによって設立されました。クルップ社は、ドイツの産業革命を支えた重要な企業の一つであり、世界的にも大きな影響力を持っています。現代クルップ社は1999年に同じドイツの大手企業であるティッセン(Thyssen)と合併し、ティッセンクルップ(ThyssenKrupp)となりました。
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