Monorails of Japan website > モノレール国内編 >モノレール計画路線(解消・未成線)【昭和40年~60年頃】
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計画名称 | 岐阜市モノレール芥見線 | ||
検討開始 年月日 | 1970年~1975年(岐阜市) |
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営業距離 | ●km(日本モノレール協会案) |
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駅数 | ●駅 |
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モノレール方式 | 跨座式モノレール | ||
1.岐阜市モノレール芥見線1-1.岐阜モノレール芥見線概要、路線計画岐阜市モノレール芥見線とは、1970年~1975年に岐阜市で導入検討されたモノレールです。渋滞緩和や地域移動手段確保など多くの目的で検討が進められましたが、費用対効果が見いだせなかったこともあり計画は中止、まぼろしのモノレール計画となってしまいました。この記事ではその詳細について解説します。1-2.岐阜市モノレール芥見線とは?岐阜市モノレール芥見線とは、1970年に検討が開始された、岐阜市モノレール構想4区間の1つであり、現在のJR岐阜駅、名鉄新岐阜駅を経由し、当時の名鉄美濃線(2005年廃止)の上芥見駅までを結ぶモノレール路線です。この計画には当時のモータリゼーションの進展や人口増加などが背景にあり検討が始まりました。H3. 元々は岐阜市内を走る路面電車区間の渋滞緩和策がはじまり 岐阜市モノレールの検討の発端は、1960年代までさかのぼります。元々岐阜市内には名鉄運営の路面電車区間が多数運営されていたが、戦後の高度成長期時代、およびモータリゼーションの到来により、市内の車の数は増え、次第に路面電車は渋滞を引き起こす原因となってしまっていた。 また岐阜市内の路面電車は特殊な事情も抱えていました。道路交通法では路面電車の軌道上を車両は走行してはならないことになっていたが、岐阜市は道路幅が狭く通行に支障があるとして、路面電車の軌道上を車両が走行することが許されていたのです。このため、電車、自動車双方が渋滞に巻き込まれるだけでなく、接触事故などの問題もはらんでおり、早期対策が必要であったのです。 このことから岐阜市は名鉄の市内線(路面電車区間)の事をよく思っておらず、廃止したい意向をもっていた。1967年には市議会で路面電車廃止決議が可決、いよいよ廃止にむけた協議が開始されることになります。しかし名鉄との協議が平行線に終わったことで一旦棚上げになってしまいました。 一方で名鉄側もこの渋滞緩和策を検討、1961年には路面電車区間の一部である長良川~養老の滝間をモノレール化する構想を発表しました。しかしながらこの計画はその後進展していません。 そんな中、1970年(昭和45年)当時の上松陽助市長が岐阜市都市交通研究会に市内の路面電車全線のモノレール置き換え計画検討を指示し、本格的にモノレール導入の検討が始まっています。 1-3.高度成長時代による人口増加も背景にありモノレール導入計画が進められたもう一つの背景には、高度成長時代の人口増加による公共交通機関の強化もありました。市内に住む市民の主たる移動手段は名鉄の市内路面電車であり、路面電車で当時の国鉄岐阜駅(現在のJR岐阜駅)、および名鉄新岐阜駅から名古屋や岐阜市内に仕事や買い物に行くのが一般的な移動手段でした。しかしながら、路面電車は自動車の増加により軌道上をふさがれる格好でしばしば渋滞を起こし、時には岐阜駅、新岐阜駅まで到達できず打ち切りとなるなど、非常に不安定な運用となっており、市内を移動する市民には非常に不便な状態となっていました。 人口が増えるにつれ市内を移動する路面電車区間は非常に重要な交通手段となってきており、この問題についても早期に解決する必要が出てきたのです。 1-4.岐阜市北部にあるニュータウン、大洞(おおぼら)地区の交通強化も目的の一つそして検討された4路線の1つ、今回の主役である芥見線のもう一つの目的が、大洞(おおぼら)地区住民の交通手段の強化にありました。当時の岐阜市は人口増加に伴い、ニュータウン計画を進めており、大洞地区にも分譲の住宅地を開発しました。大洞地区は岐阜市の北の端、関市との市境にある住宅地でしたが、当時は最寄り駅である上芥見まで1.3㎞程離れており、住民は不便を強いられていました。 そこで市長はモノレールによる路面電車置き換え計画の中で、終点の上芥見駅を大洞地区方面に移設し、大洞地区住民の利便性向上と交通手段の強化を図ろうと考えていました。 1-5.当時の国のモノレール整備の促進に関する法律が検討を後押しまた、当時は同様の問題を抱える自治体が多かったことや、国が都市モノレールの整備の促進に関する法律を制定、都市部の渋滞緩和や住民の利便性向上に向けたモノレール導入を後押ししており、建設時は国から補助金が提供されていた。岐阜市がモノレール計画を推進しようとしたのは、この補助金制度があったことも背景にあると考えられます。 2.岐阜市モノレール芥見線の路線計画人口増加、モータリゼーションの到来などによる交通問題の早期解決を図るべく計画された岐阜モノレール計画でしたが、具体的な計画はどのような内容だったのでしょうか?岐阜モノレール芥見線が具体的にどのような計画だったのか?整理してみましょう。基本的な考え方は、これまでの路面電車の置き換えと、郊外住宅地と都市部をつなぐ便利な交通網の構築、この2点になります。 2-1.ルートは岐阜市内の路面電車区間の置き換えまず岐阜モノレールは市内路面電車区間の渋滞緩和を目的としていたため、基本的には路面電車の置き換えで考えられていました。芥見線については、当時の名鉄岐阜内本線、岐阜駅前~徹明町駅間、および名鉄美濃線の岐阜区間(徹明町駅~上芥見駅間)をモノレールで置き換える計画でした。通過駅についても当時路面電車を利用していた住民の利便性を損なわないようにするため、岐阜駅・新岐阜駅~徹明通駅~競輪場前駅~上芥見駅という両路線の既存駅はすべて置き換える形で計画が進んでいたのです。 H3. 大洞地区住民の利便性を考え、終点の芥見駅は大洞地区近くへ 2-2.大洞地区住民の利便性を考え、終点の芥見駅は大洞地区近くへ但し、終点の上芥見駅のみは当時の路面電車の駅とは違う場所に移設が計画されていました。これは先ほどもお話ししたとおり、近隣の大洞地区の住民が駅から離れており、通勤通学で苦労を強いられている現状があったためです。そのため、元々長良川に近い西側の上芥見地区にあった駅を東側の下芥見地区、および大洞地区入り口付近に移動し、芥見地区、および大洞地区双方の住民が利用しやすい場所に移動することで利便性を高めようと考えていました。 2-3.芥見線計画の結果さて、岐阜市モノレール芥見線はその後どうなったのでしょうか?残念ながら最終的に計画はとん挫、5年後の1975年に計画中止となってしまいました。路面電車・自動車双方の渋滞問題や郊外住宅地から市内へ移動する公共交通機関の強化が急務だったはずなのに、何故計画中止となってしまったのでしょうか?ポイントは当初の需要予測の甘さです。この当時、多くの地域でモノレール導入が進むも失敗した地域が多数であったことも事実です。岐阜市は事前検討の結果、導入前に中止に踏み切ったことはある意味良い判断だったとも言えます。 2-3.芥見線計画の結果さH3. 5年の検討の結果、費用対効果が見いだせないことから、計画中止 岐阜市は1970年~1975年にかけ岐阜モノレールプロジェクトの実現性について協議を重ねていきました。しかしながら最終的には4路線すべてに対し計画中止となったのです。 その理由は需要予測と投資金額のコスト対効果を検討した結果、効果が低く、赤字化する公算が高くなってしまったからです。いくら利便性を考慮したとしても利益を出せない路面では意味がなく、結果計画中止となってしまったのです。 2-4.5年の検討の結果、費用対効果が見いだせないことから、計画中止その後、市内路面電車は順次廃止の一途をたどっていくことになります。1988年の長良線の廃止を皮切りに、1999年に美濃線の一部区間、2001年の谷汲線と続き、2005年3月末をもって全線廃止となりました。ただ最後に廃止された揖斐線、美濃町線の周辺住民からは交通手段確保のため存続に向けた署名運動があり、実に7万人の署名が提出され、一時はさらなる存続についても検討されています。 名鉄が継続廃止を決めたこともあり後継事業者として岡山電気軌道などが名乗りを上げ継続した場合の試算が行われたが、単独での黒字運営は困難とされ断念されました。 また当時、市内を走る路線バスも利用者減少による赤字が問題化していたことから、最終的に路面電車を廃止、代替手段を路面バスとすることで、需要の一本化を図り、路面バスの赤字解消にもつなげる施策でまとまり、全面配線が決まっています。 3.まとめいかがだったでしょうか?岐阜市は当時道路の交通渋滞緩和と郊外住民の利便性向上に向け市内モノレール導入を検討するも最終的には計画中止としています。しかしながらこの時期、自治体の中には無理に導入計画を進めた結果大赤字となり多くの費用を流出するだけとなる失敗を犯した地域もあったと聞いています。これと比べれば岐阜市は正しい判断をしたのではないかと考えます。 そう考えれば、岐阜市内の交通施策は正しい判断をし成功裏に終わったと言える、そう考えます。 |
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