多摩モノレールの最終的な路線構想網に匹敵する頂戴な路線計画、埼玉中枢都市圏 都市モノレール構想をご存じでしょうか。その主要ルートかつ、この構想の先頭を走っていたのが浦和市都市モノレールです。
かつて埼玉では 中枢都市圏における複数の都市モノレール構想が立ち上がり、最終的にはそれらを短絡させ、埼玉中枢都市圏を網羅するという大掛かりなモノレール構想がありました。1970年後半から1980年代、当時は 都市モノレール構想の検討が どの都市でもトレンドとなっていた時代。
千葉市では1977年頃より都市モノレール等の導入検討を実施、その後に 後の千葉モノレールとして開業を果たす事となります。2023年現在の今も、箱根ヶ崎への延伸が決定、さらに町田方面への更なる延伸検討が進められている多摩都市モノレールでも1980年付近より、同じく都市モノレール導入の検討調査が行われました。
これは当時 いわゆる都市モノレール法が立ち上がった事と、都市モノレールの検討調査に補助金がでる事となったため、多くの地方都市でモノレールの導入が検討された事に他なりません。
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当時、埼玉中枢都市圏においても 同様に都市モノレールの調査および検討が行われました。
1980年には浦和市 浦和市営モノレール および 川口市 川口都市モノレールを検討、
1982年には 大宮市 大宮都市モノレール、
1984年には 上尾市 上尾市都市モノレール等の、
都市モノレール調査が行われました。
これらは各々の市が それぞれで調査を行ったものではありましたが、いずれのルートも起点、終点または起終点両方ともが、他の市域で検討されていた都市モノレールと接続され、埼玉中枢都市圏全体を都市モノレールで網羅するという大規模路線網として考えられていました。
しかしながら 現実が示している通り、これら 埼玉県域で構想されたモノレールについては、いずれも開業を果たすことはありませんでした。北九州、大阪、千葉、多摩の様に
都市計画決定まで至り、開業、さらには大阪や多摩の様に その後もさらなる延伸を続ける路線もある一方、多くの都市モノレール構想が 文字通り構想止まりとなり、開業を果たしませんでした。つまりは
埼玉県域各都市のモノレールも、都市モノレールの一つの可能性だったわけです。
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埼玉中枢都市圏都市モノレール路線構想
(c)Google earth |
このうち、浦和市都市モノレール(浦和都市モノレール・浦和市営モノレールと同意)も、大宮都市モノレール構想と川口都市モノレール構想の間を繋ぐ路線として検討されたルートでした。
1980年代、埼玉県の南側の地域、具体的には、旧大宮市、旧浦和市、旧与野市、上尾市、川口市などでは、当時、各都市で導入が検討されていた、都市モノレールおよび新交通システムの導入計画が、同じように進められていました。
埼玉中枢都市圏においても、これらの課題解決に資する都市モノレールに関心が高まり、検討が行われていくようになりました。これがいわゆる埼玉中枢都市圏都市モノレール構想です。
高度経済成長期以降の日本では、埼玉だけでなくいずれの都市でも、モータリゼーション等に伴う交通渋滞、土地利用の検討が協議され、課題として認識されるようになっていました。
埼玉県では、埼玉中枢都市圏構想が1980年に策定され、旧与野市、旧大宮市、旧浦和市、上尾市、伊奈町の4市1町のローマ字表記の頭文字をとり「YOU
And Iプラン」と称されます。これと時期を同じくして、埼玉圏外の他都市においても、同様に都市モノレールの検討が進められていました。
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「さいたまYOU And Iプラン圏域図」(c)埼玉県
赤線が都市モノレールルート |
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一つが千葉都市モノレールで 1976年にモノレールマスタープランが策定されて以降、様々な過程を経て、1988年に 初期区間となる 2号線のスポーツセンター駅から千城台駅間で開業を果たしました。 |
千葉モノレールの当初マスタープラン (c)mjws
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そして もうひとつが多摩モノレール。1981年、東京都による 多摩地域都市モノレール等基本計画調査が公表され、立川基地跡地、多摩ニュータウン、八王子、町田、是政等を環状に結束する、全長約93kmにも及ぶ
環状のモノレールの検討路線構想が示されました。
この構想のうちの一部区間ではありますが、1998年から2000年にかけ、多摩センターから立川を経由して、上北台までの区間が開業。さらに2022年末、構想ルート上における 上北台から箱根ヶ崎までの区間 およそ7kmの延伸が決定し、2035年ごろの開業を目指しています。 |
多摩都市モノレール (c)mjws |
埼玉県の主要部に配置される 埼玉中枢都市圏においても 同様に都市モノレールが検討されていく様になり、県下の各都市はそれぞれの市域内を範囲とするモノレール調査を進めていく様になりました。
このうちの一つ、旧浦和市においても、1980年から1981年にかけ、日本モノレール協会に調査を委託する形で、浦和市営モノレール すなわち浦和都市モノレール整備の検討が行われていきました。 |
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浦和市とは、2001年まで存在した 埼玉県南部の市です。埼玉県内最大の人口を有し、県庁所在地として県行政の中枢を担っていた いわば埼玉中枢都市圏の中心都市でした。
2001年に 当時の大宮市および与野市と合併してさいたま市となり廃止されています。2003年にはさらに、さいたま市の政令指定都市移行 および
区制施行に伴い、旧市域にあたる部分が 桜区、浦和区、南区、緑区の4区に分けられます。 |
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当時の浦和市域については現在、これを総称して浦和地区と呼ばれています。浦和市は、南北に9.9km、東西に15.8kmと東西に長く、その後に検討が進められていく都市モノレールとしても必然的に
横方向の交通機関として思案されていく事となります。
1985年、浦和市では 西部地域に埼京線が開通し、武蔵浦和駅、中浦和駅の2駅が開通され、さらに、東部地域には 2001年には地下鉄南北線から延伸した埼玉高速鉄道線が開通し、浦和美園駅が開設され、市域の鉄道交通の利便性が増しました。
浦和都市モノレール構想は、埼玉中枢都市圏で都市モノレールの調査がブームとなっていくその先頭を走っていく事となったのです。 |
浦和市都市モノレール(赤)の基本線形 |
浦和都市モノレールのルートは、北側に位置する大宮都市モノレールの南端部へ接続する予定でしたが、構想立案時、水判土地区の再開発計画は未だ構想段階で、水判土交差点脇に配置が計画されていた都市計画道路も未だ未整備の状態となっています。この都市計画道路は、2023年現在においても計画決定は成されたものの、整備はされていません。また、浦和都市モノレールの南側末端部は、川口都市モノレール北側末端部に接続するものとして、現在の東川口駅北側が構想の終点と位置付けられていました。
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埼玉県域における都市モノレールルート
浦和都市モノレール等調査報告書 より
(c)浦和市開発部計画課 |
とはいうものの、これら北側および南側の都市モノレールの計画の進行も当時不透明であった事から、浦和市においては収支採算性などの検討より西側の終点を埼玉大学と据え置き、東側の終点を最大で東川口までの15km、本命ルートを三室までの8.5km、さらに 三室から東浦和へ伸ばした10.6kmの3ルートで検討を行いいました。 |
浦和都市モノレールの基本ルート
(c)浦和市開発部計画課 |
どの都市モノレールでも 主要帰属道路といって 主に帰属する道路が存在するわけですが、浦和都市モノレールではこれが、都市計画道路 3 2 8号 道場三室線となっています。ただし、モノレールの導入を想定していた 道場三室線では、JR線の浦和駅、県庁、市役所等の 浦和中心部を通過しません。これら、モノレール等の利便性および交通渋滞緩和の観点から、都心部については地下または高架式のいずれかで、大きく迂回するルートとして思案されていました。 |
地下ルート部開削トンネル断面図
浦和都市モノレール等調査報告書 より
(c)浦和市開発部計画課 |
浦和都市モノレール調査報告書では、道場三室線を直進するルート、浦和都心部経由ルート、道場三室線から経由 分岐し、支線を浦和駅近傍に誘導する方法等 計9パターンで検討を行いました。事業費、用地手当、運行管理などの面で一長一短あり、最有力候補こそ決定に至らなかったものの、都心部複線地下案および 道場三室線直進案の2パターンを最有力候補として さらなる検討を進めていく事となります。ただ実際には、優位性を多方面から検討し、都心部地下複線案が本命であった様です。 |
浦和市都市モノレール複線地下案(B)
浦和都市モノレール等調査報告書 より
(c)浦和市開発部計画課 |
2.浦和市都市モノレールルート
浦和市営モノレールルートの起点は埼玉大学脇の都市計画道路3・4・15号線よりスタート。ここに起点駅を設け、この直後から道場三室線方向へ左折し浦和都市モノレールの主要帰属道路に帰属していきます。 |
埼玉大学脇の都市計画道路3・4・15号線
モノレールの起点駅はこの位置を想定
奥手に行くと大宮都市モノレール区間となる photo 田村拓丸(MJWS) |
都市計画道路3・2・8号線道場三室線では未だ用地取得を行っている状況で、この先に位置する県道124号線位置まで、現状は幅員の狭い道を進んでいきます。ただ最終的には、この道路も幅員30mの4車線道路として、浦和市としても主要道路となっていくはずです。 |
工事が進む都市計画道路3・2・8号線道場三室線 photo 田村拓丸(MJWS) |
さらにこの先で、浦和都市モノレールは 東北新幹線 および埼京線の高架下を通過していきます。この地点は 1982年に開業する事となる 東北新幹線の建設時より都市モノレールが通過する事を想定して建設が成されていたとの事で、支柱間が広くとられている事がわかります。 |
東北新幹線および埼京線高通過部
photo 田村拓丸(MJWS) |
この先は都市計画道路も既に完成 つまり供用が開始されている区間で、多くの自動車が通行していました。浦和都市モノレールの検討調査報告書にも記載されている通り、この先の常盤7丁目交差点で モノレールルートは右折、都市計画道路3・5・6号線 国道17号線に入ります。
都心部地下案については、この常盤7丁目交差点交差点の手前で高架式から地下式へ標高を下げ、交差点直下についは、トンネルで右折するイメージであったと思われます。 |
常盤7丁目交差点交差点
photo 田村拓丸(MJWS) |
この国道17号線は、駅の西側を南北に貫く主要道路、既に多くのビルが林立しており、ここから幅員を広げるというのはかなり難しそうです。このルートで 都心部まで南下したモノレールルートは、高砂四丁目交差点位置で左折、埼玉県庁の下を潜り抜けていきます。 |
photo 田村拓丸(MJWS) |
モノレールルートは県庁の下をトンネルで通過し、都市計画道路 3 6 30 浦和西口停車場線に帰属、直後に配置されるJR浦和駅の直下をトンネルで抜けて行きます。
浦和駅の支柱などをかわしつつ駅の建物を通過した後、直後に左折、この直後に地下式として浦和駅が配置された事でしょう。 |
浦和都市モノレール 県庁前付近の地下ルート |
ここから先も構想図の通りに進んでいきますが、この先、道場三室線に復帰するまでの区間 都市計画道路の設置がありません。このJR線との並行区間の間に、地下トンネルから高架線に推移していく予定で、このトンネルからの移行区間を加味した新たな都市計画道路を配置する予定だったのでしょう。
いずれにせよ、仮にモノレールを建設する事となった場合、手続き上、恐らく最も難所となったに違いありません。 |
浦和都市モノレール 浦和駅付近の地下ルート |
浦和都市モノレールは、ここで道場三室線へ復帰、以降は東へひたすら進んでいきます。ちなみに、調査報告書では この先の最終到達点となる 東川口までの区間において、同 東部開発が実行された場合と 実行されなかった場合 および この道場三室線の途中に位置する 三室までの 計3パターンにおいて 採算性を中心とする検討を行っています。
ここで算出されている運賃ですが、埼玉大学から三室までは140円程度、東部開発が行われなかった場合の 東川口までの運賃が175円程度、東部開発が実行された場合の東川口までの運賃が、155円程度となっています。この運賃は 浦和都市モノレール開業時からの累積赤字が 20年目に消える様に算出されたものとなっています。
なお、調査報告書内には 東部開発が行われなかった場合、浦和都市モノレールの東川口まで としての 路線の事業化は困難 と添えられています。つまりは、現実的には、埼玉大学から三室間における およそ8kmの路線として敷設する事が妥当であると、当時より明らかになっていた様です。
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いずれにせよ、この浦和都市モノレールのみならず、埼玉中枢都市圏の都市モノレール構想は いずれも開業を果たす事はありませんでした。北から順に、上尾、大宮、浦和、川口と 合計で4路線の構想が立ち上がったわけですが、これらは 後に ユーアンドアイプランという埼玉中枢都市圏 開発計画をベースとしたもので検討が進められ、4都市が連携 4つの都市モノレールが接続する事を前提とする大規模モノレール構想として立案されていく事となります。
なお、大宮 浦和 川口の3路線でも、県南中央都市連絡S字型モノレール構想として構想案が示されており、北側の上尾市を含む、南北4市において連携を深めようとしていた事が
よくわかる全体構想となっています。 |
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こちらが、浦和市営モノレールの東側終点として考えられていた図の表記上の三室。もともとこの位置には 地下鉄7号線が東浦和駅方向から北上してくる予定でした。
よって浦和都市モノレールの東側終点も、この位置に配置し、将来の地下鉄線と接続する計画だったのです。この地下鉄7号線については、後に埼玉高速鉄道として、さらにこの先に位置する浦和美園駅位置まで
終着点が東にズレる事となりました。
このため当時検討された浦和市営モノレールを含む 埼玉中枢都市圏のモノレール構想 諸所の計画図と 整合が取れない状況となっています。
さてここまで、埼玉中枢都市圏のモノレール構想、その中心路線と位置付けられていた浦和市都市モノレールその概要と未成線ルートを紹介しました。
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関連リンク 上尾都市モノレール |