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静清モノレール 三保線(仮称)

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計画名称 静清モノレール 三保線(仮称)
提案年月日 静岡県 静清地区総合都市交通体系調査 1970年度および1972年度 - 1974年度実施
日本モノレール協会計画案「静清モノレール 三保線(仮称)」1971年
営業距離 10.6km(日本モノレール協会案)
駅数 14駅
建設予定駅:清水 ー 清水橋 ー 万世町 ー 本町 ー 三光町 ー 村松原 ー 緑ヶ丘 ー 日本平入口 ー 駒越 ー 折戸 ー 東折戸 ー 三保 ー 羽衣入口 ー 真崎
複・単線  複線
モノレール方式  跨座式モノレールと、懸垂式モノレールの2パターン提案
想定車両数 64両

1.静清モノレール

1-1.静清モノレール路線計画

静岡市と清水市は2003年(平成15年)4月1日に合併し、静岡市へと名称を変更した。
両市の間では過去に幾度となく合併の話は立ち上がっており、検討の発端は1962年(昭和37)に策定された「全国総合開発計画」に由来する。
この計画は戦後の復興から高度経済成長実現させるために国土開発の中核となる都市の育成を進め、地域間の均衡ある発展を実現していこうとするもので、静岡県は東京と名古屋間における地方拠点都市発展が期待されていた。
1965年(昭和40年)に制定された「市町村の合併の特例に関する法律」(合併特例法)をもとに県庁所在地である静岡市、国際拠点港湾の清水港を有する清水市の両市の間でも、静岡市と清水市を併せた静清地域の総合的な開発を推進するため、同年「静清広域行政協議会」が設置され、合併が検討された。

具体的な活動として、1970年(昭和45年)には東京大学都市設計研究室(現:都市デザイン研究室)の丹下健三教授を中心に合併後の町づくりについて議論と研究が行われている。
「清静地域都市開発基本計画」というタイトルのその研究は静岡市と清水市が合併することによって形成される都市を発展させながら運用するためにはどのように都市整備を行えば良いのか、静岡市域と清水市域をいか繋ぐか、という課題であった。

その課題に対する有効な解決策として考えられたのが「モノレール」で静岡と清水を繋ぐという案である。
1960年の東京モノレール開業によって、モノレール建設は幾つかのメリットを有することが見出され都市間交通システムとしての有効性が考えられていた。モノレール建設に関するメリットは大きく二つ挙げられる。一つは、建設費が安いこと。地下鉄が1キロあたり40億円とされており、対する静清モノレールの予算額は1キロあたり14.8億円と約1/3である。もう一つはモノレールの支柱や軌道桁の建設には、十分な幅員の工事用道路が必要であるため、モノレールの建設過程で道路も作られる。モノレール建設と、道路建設によってインフラ整備がメリットとして考えられていた。

そして「清静地域都市開発基本計画」内では以下の3路線が検討されていた。
①用宗駅 - 大坪町 - 聖一色 - 草薙 - 桜ヶ丘 - 万世町 - 清水駅 - 興津駅 - 八木間 営業キロ数24㎞
②山崎 - 井宮町 - 新静岡駅 - 静岡駅 - 大坪町 - 高松 - 静岡大学・有度山麓文教地区 - 聖一色 - 楠 - 桜ヶ丘 - 駒越 - 折戸駅 - 三保駅  - 真崎、営業キロ数約31km
③鳥坂 - 楠 - 草薙駅 - 草薙 - 日本平 営業キロ数約8km

①「用宗駅 - 八木間」の路線は東海道線および静岡鉄道静岡清水線とほぼ並行している。東海道線のおよそ1km南に静清幹線という幅広の道路を東西方向に整備し、その上空をモノレールを走行するという計画であった。

その後、静岡県が1970年度および1972年度 - 1974年度に実施した静清地区総合都市交通体系調査では、モノレールが1路線計画され、日本モノレール協会から1971年に具体的な計画案が「静清モノレール 三保線(仮称)」として発表されている。

静清モノレール 三保線計画案
建設予定駅:清水 ー 清水橋 ー 万世町 ー 本町 ー 三光町 ー 村松原 ー 緑ヶ丘 ー 日本平入口 ー 駒越 ー 折戸 ー 東折戸 ー 三保 ー 羽衣入口 ー 真崎

営業キロ数:10.6km、合計14駅を24分30秒で繋ぐ計画とされていた。工事費 54億1千万円。 レールの上を走る跨座式モノレールと、レールをぶら下がって走る懸垂式モノレールの2パターンが提案され、投入される車両数は64両。総経費は前記工事費を含めて157億5千4百万円

静清モノレール 三保線想定ルート
緑:旧清水港線 ピンク:モノレール想定ルート

モノレール建設による採算計画は
・昭和48〜49年は工事期間として11億のマイナス収益
・昭和50年開業して22億の収入、20億の支出、工事費の償却もあり約8億のマイナス収益
・開業3年後にプラス収益へと転じ、3.7億の収益。そして開業10年後には67億の収益を上げる計画となっていた。

年間利用者数は開業年が3464万人、開業10年後が4025万人と560万人の増加を見込んでいた。年間の運営経費は20.6億円。静岡市と清水市の人口は1970年当時で両市合わせて65万1,344人。人口のどの層をモノレール利用者と仮定していたか不明であるが、資料によると観光客を除いた1日当たりの利用者数は10万1000人となっている。同じく開業10年後の観光客を除いた1日当たりの利用者数は11万7,300人となっており、静岡・清水合わせた住民の利用者数が10年で1万人増加すると見込んでいたことが分かる。
静清モノレール車両イメージ用図 (c)MJWS編集

しかし、静清モノレールは実現されることはなかった。
静清モノレールによる期待効果として以下の3点が考えられていた。
・静岡ー清水の東西間のアクセス向上
・清水港の発展に伴う1970年代に増加した市内の交通渋滞の緩和。
・三保の松原で有名な三保地区の観光資源開発のための交通手段

1968年から建設の始まった国道1号線静清バイパスによる交通状況の改善といった効果、1973年に発生した第1次オイルショックによる不況や建設資材の高騰などの環境因によって、モノレール計画も立ち消えとなり、静岡市と清水市の合併計画も合併特例法の期限となる10年を迎え1975年に解消されることとなった。
静清モノレール清水駅設置想定位置の現在の様子




2.静岡県清水港線

(1) 清水港線

旧静岡県清水市は、駿河湾岸にあり、眺めがよく特に富士山の眺望が素晴らしい。そのこともあり、絵画や写真には清水港と一緒にあるものが多くある。清水を代表する絶景スポットには三保の松原があり、約7kmの海岸に約3万本の松が生い茂り、松林、白波、富士山が織りなす景観は浮世絵や絵画で描かれている。1916年に東海道本線の貨物船として一部区間が開業しており、1944年に東海道本線から分離独立して清水港線となった。旅客営業は貨物列車に客車を連結した混合列車によって行われていた。最盛期には1日に数往復の旅客列車が運行していました。昭和30年代には黒字路線になったこともあった。世間で自家用乗用車が普及したことにより、旅客列車の衰退が始まってしまいます。そのことにより清水港線も赤字路線になってしまう。1972年以降は、旅客列車が1日1往復になり、貨物専用路線を除いた日本一旅客列車の運行本数が少ない鉄道路線となった。
廃線末期になると、清水港線のダイヤは、通学用の利用に適したダイヤ設定になる。利用客の大部分が、折戸駅近くに立地する高校の学生が通学客であった。旅客列車が1往復しか運行しない状況では利用客の足として機能していない状態でした。一方、バスは1日100往復もの運行がされていた。そのようなこともあり、廃止の問題になるが、貨物輸送は1日7往復していたこともあり廃止に対して反対意見もあった。国鉄の貨物合理化輸送の影響も受け、清水港線は1984年に全線が廃線になり、静鉄バスに転換された。

(2)清水港線の概要

駅数は6駅となっており、清水駅が起点になっていた。1980年代までは駅南東にある工場へ続く専用線があった。
清水港駅、ここは清水港線の貨物駅だった。貨車の一種である有蓋車による貨物輸送を行っていた。貨車と船の間で材木の積み下ろし作業を行う、テルファークレーンがあり、この駅のシンボルとなってい。
清水埠頭駅は、旅客用片側ホームが設置されておりました。無人駅のように見えるが、本線から400m程入った位置には駅舎があり有人駅となっていた。埠頭にあった倉庫へ構内側線が続いており、船舶と共同で輸送を行っていた。

巴川口駅は、貨物ホームがあり、貨物の取り扱いが主な駅であった。またいくつかの企業の専用線もあったとされている。この駅では巴川に架かっていた巴川可動橋の操作も行っていた。

折戸駅は、無人駅になっており、駅舎なども無くホームだけの駅。高校生の利用が多く、清水港線を利用する方たちの大半は当駅で乗降していた。

最後に終点が三保駅。駅舎南側には1面1線の貨物ホームがあった。また、工場へ続く専用線が分岐していた。

三保駅の跡地

(3)清水港線の廃線

清水港線は清水駅の東海道線ホームとは離れた南口の近くにあったとされている。2000年頃には清水港線跡が随所に見受けられるが、年々無くなっていった。線路跡は新しい道路や建物になっていき様変わりしていく。

清水港駅の跡地には、商業施設であるエスパルスドリームプラザが建てられている。隣接した海側には清水マリンパークが整備される。後に、周囲を少しずつ拡張整備していく。清水埠頭駅の跡地は現在、集合住宅ビルである浪漫館になっている。

巴川口駅跡地には、静清環境センターが建てられており、乗降場の一部が残されており、線路と共に整備を行い保存されている。通常時は非公開とされているが、建物の外からでも見ることができる。折戸駅の方向にある廃線跡は自転車や歩行者用の道路として整備されている。

折戸駅跡地には、公園が整備され、落ち着ける場所になっている。
三保駅跡地も「三保ふれあい広場」という公園になっている。公園内には、乗降場の一部が残され、その上に芝生が張られており、小型ディーゼル機関車と私有タンク車が静態保存され残っている。
1980年代より鉄道貨物輸送が主流ではなくなってしまい、輸送手段がトラックに切り替わりったが、沿線の道路整備も行われており、障害にはならなかったとされている。




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