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Straddle-beam monorail (ALWEG) system , Hitachi
名古屋鉄道&日立製作所が、国内へのALWEG式モノレール導入に乗り出した初期路線
1.モンキーパークモノレール線モンキーパークモノレール線は、1962年〜2008年まで存在した名古屋鉄道のモノレール路線です。開業当時はラインパークモノレール線という名称で開業しました。 1-1.名古屋鉄道モンキーパークモノレール線(ラインパークモノレール線)ラインパークモノレール線は犬山自然公園内の名古屋鉄道犬山本線犬山遊園駅と子供動物園を結ぶ全長1399mのモノレール路線です。路線は名古屋鉄道犬山遊園駅より成田山を経由し、日本モンキーパーク内の動物園駅までを結んでいました。 いくつか呼称が存在し、「犬山遊園モノレール」「犬山モノレール」等の愛称でも親しまれていました。 2008年12月27日の最終列車をもって、惜しまれつつも廃線となりました。 1962年(S37年)3月21日 ラインパークモノレール線開業 2008年(H20年)12月28日 廃止
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2.日立アルウェーグ式モノレール※以下、文章中に登場する"ラインパーク"は建設当時の名称を用いたものであり、モンキーパーク(モノレール)と同意です。2-1.アルウェーグ(ALWEG)式[モノレールとは?]現在のモノレールの原点であり、最も繁栄した方式がこのアルウェーグ式です。 国内におけるモノレール主要路線、名鉄モンキーパークモノレール線、東京モノレール、北九州(日本跨座式)、大阪(日本跨座式)、多摩(日本跨座式)、沖縄(日本跨座式)は基より、重慶軌道交通(中国:日本跨座式)、KLモノレール(マレーシア:Scomi)、ムンバイモノレール(インド:Scomi)、サンパウロメトロ(ブラジル:Bombardier)等新規建設路線についてもこの方式から派生しています。 アルウェーグ式は、それまでの鉄道およびモノレールと大きく異なり、ゴムタイヤを走行および案内安定輪に用いました。
スウェーデンの産業経営学者アクセルレナートウェナーグレンは第二次世界大戦後、モノレールの開発事業を展開します。 「アルウェーグ (ALWEG)」は、創設者である彼の名前の頭文字から取られています。 彼は西ドイツのケルン市郊外「Fuehlingen」に、1/2.5スケールの楕円形のモノレール試験線を設けます。 ここでのテスト車両では、160km/hの速度を達成しました。 このデータも基に1957年7月、実物大スケールでのモノレールシステムの試験を行います。 これらのシステムは当時、ディズニーランド内への移動設備を模索していたウォルトディズニーの目に留まり、1958年ウォルトディズニーとアルウェーグ開発は、共同でディズニーランド導入用のモノレールを試作、その後1959年に5/8スケールでのディズニーランドモノレールが実現しました。 ここから、ボンバルディア、日本では日立製作所、スコミ・レールへとアルウェーグ式モノレールは引き継がれ、現在ではそのシステムは世界的な発展を遂げていきます。 (ディズニーランドモノレールはボンバルディア社(本体はカナダ、ボンバルディアトランスポートはドイツ)によって成長を続け、後のMarkU、V、Wへと進化を続けていきます。現在ではラスベガスモノレールも管轄下におき運行されている他、ブラジルサンパウロ地下鉄へも導入、建設が進められています。) ディズニーランドでの成功後も、遊園内や博覧会用に次々と小規模な路線が建設されていきました。 1961年、イタリア トリノでの博覧会で運行、続いて1962年 シアトルの21世紀万博で運行。 日本国内へは創めて日立製作所が技術導入し、1962年犬山遊園モノレール線(日立)、1963年読売ランド(日立)、1964年東京モノレール(日立)へと本格的な営業路線建設へと繋がっていきました。 2-2.モノレール大国日本の夜明け1961年、トリノで行われた博覧会において、アルウェーグ式モノレールが当時の名古屋鉄道社長の目に留まりました。この瞬間が、日本がモノレール大国へと進む一つのタイミングとなりました。 名古屋鉄道では当時、犬山自然公園における大規模な開発を計画していました。 犬山自然公園は、日本モンキーセンターで知られる木曽川をはさんで岐阜県と相対した、東北部一帯約9900アールの広大な自然に恵まれた土地でした。 この自然公園の地形は起伏に富み、地区と現在の犬山遊園駅間は丘で隔たれていたため、鉄道による輸送が困難とされました。 施設自体も、拡張整備に伴い年々増加する利用者を公園中心部である子供動物園へ輸送するのに苦慮していました。 時を同じくして、日立製作所ではアルウェーグ社と技術提携、アルウェーグ式モノレールの国内導入を目指していました。 このモノレールシステムは地形的に不可能と考えられてきた鉄道輸送の諸問題を一掃させる物として期待され、同地区へのモノレール建設へと舵が切られます。 このモノレールはその後1961年(S36)8月より工事着手し、1962年(S37)3月に完成しました。 国内において、遂に本格的なアルウェーグ式モノレール※、ラインパークモノレール線が開業しました。 (※当時の呼称はアルウェーグカー) その後の国内への導入は周知の通りで、よみうりらんど(関東レースクラブ)、東京モノレール、北九州を皮切りとする日本版アルウェーグ式モノレール、日本跨座式の建設へと繋がっていきます。
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3.ラインパークモノレール線の建設ラインパークモノレール線の建設にあたっては、それまでの遊戯施設としてのモノレールとは異なり、日本国内最初の地方鉄道法による実用モノレール路線となりました。この時点においては、国内へのアルウェーグ式モノレールの導入実績がなかったため、日立独自の基準を構築する必要がありました。 建設における構造や基準も、従来の鉄道とは根本的に異なったものであったため、様々な議論の中建設が進められる事となりました。 3-1.ルートの選定ラインパークモノレール線の初期ルートは、当初犬山遊園駅より成田山駅、ラインパーク駅の中間駅を経て動物園駅に至る1.575kmとして計画されました。当時自然公園の中心的存在であったラインパークを主軸に考えられたためです。 このルートにおいては高所を通過するため景観が良く、遊覧を兼ねた遊園地内の輸送機関として最適とされ計画が進めらました。 しかし、その後事業計画の変更により子供動物園を自然公園の中心として整備されることが決定し、ルートは変更される事となりました。 当初のルートでは、ラインパーク駅と動物園駅間はわずか350m程度の短距離であったため必要性(需要)が低いとされました。 さらには、ラインパーク駅はラインパークの中心部に位置していない事、動物園の拡張整備と同時に動物園とラインパーク 間に橋を設け接続する事などを考えた場合、ラインパーク駅が不要であると結論付けられたのです。 上記事由によってラインパーク駅の計画は廃止され、建設費を安くするため後のルート(1.399km)が選定されました。
3-2.モノレールの規格ラインパークモノレール線建設予定地は、木曽川沿いの山地で、地層は大体表面沖積層、その下は洪積層、深部は火成岩質となっていました。また、モノレール工事の基礎が施工される箇所は赤褐色粘土層から砂質層、場所によっては風化岩層によりなりたっていました。 地質調査は犬山遊園駅より動物園駅に至る延長1.575kmにわたって昭和35年12月および昭和36年8月に実施されました。 この調査は約50mおきにハンドオーガーによるボーリングおよび標準貫入試験を行い、さらに地耐力試験、試験杭打が行われました。 結果より様々な事情が考慮され、軌道施設の規格は以下で進められています。 最小曲線半径 100m 最小曲線半径(乗降場部分)150m 縦曲線半径(最小)500m カント細大 tanθ=0.15 カント不足の許容値 tanθ=0.05 最急勾配 100‰ 最急勾配(乗降場部分) 10‰ 3-3.モノレールの軌道桁モノレール車両の走行路となる軌道桁の種類は、本線軌道内における長さ15m,10.5mの直線桁および長さ15mの曲線桁の4種類が設定されました。また、検修設備の側線に渡すためトラパーサが設定され、11mの直線桁とされました。 軌道桁はすべて鉄筋コンクリート構造とし、その断面は中空のT形断面となっています。 中空部分の空胴は、軌道桁の自重を軽くするために設けられたものです。 また軌道桁側面中央部の凹みは、電車線収容のために設けられているものとなっています。
なお軌道桁間の接続部分はフィンガープレートで接続され、継目部における車両の走行を滑らかになるよう工夫されています。 軌道桁の支持方法は、一端固定タイプ(ヒンジ)と他端可動タイプ(ロ−ラ)の単純支持となっています。 軌道桁を製作するための軌道桁製作場は、後の支柱No.30〜36の区間に該当する約6,000m2の土地に設置され、 鉄筋組み立てから架設までの一貫した作業を行える製作場として整備されました。
軌道桁製作場は主に以下に示す設備に分かれていました。 @鉄筋組立および支承金具取り付けAモールド場B一次養生C転倒場D二次養生 近年のモノレール軌道桁製作場とおよそ同一の項目および設備配置となっています。 モールド場は2つのモールド場からなり、第1モールドはおもに直線用として、第2モールドは曲線用に区別されていました。 製作された軌道桁は、架設車、クレーン(またはトラッククレーン)または豆トロ運搬によるサンドル架設が実施されました。 軌道高が10mを越える位置もしくは軌道下の地面が使用できない箇所においては、このうち架設車を用いた架設が選択されました。 末端部分の軌道桁には車止めが設置されました。 ラインパークモノレール線においては非常列車停止装置が採用されていたために、衝突の可能性は低いとされました。 そのため、車両の入替えおよび引き上げのためホーム部分より車止め方向に走行する場合の状況を考慮した車止めが設置される事となりました。 3-4.モノレール車両車両は日立製作所製造によるMRM100および200形が使用されました。車体はアルミニウム合金製とされ、当時名古屋鉄道においても最大の車幅を誇りました。
両先頭車のMRM100形および中間車MRM200形を組んだ全断面貫通路による3両編成として構成されていました。 後の関東レースクラブ(よみうりランドモノレール)および東京モノレールにおいても全断面貫通路による3両編成が採用されています。 MRM101-MRM201-MRM102編成およびMRM103-MRM202-MRM104編成の2編成が製作されました。 通常は1本での運行とし、多客時には2本を連結した6両編成で運行しました。
MRM100形(先頭車) 全長:11000mm 全幅:2952mm 全高:4300mm 自重:12.8t(101・103)/ 13.0t(102・104) MRM200形(中間車) 全長:8800mm 全幅:2952mm 全高:4300mm 自重:13.5t 制御装置:電動カム軸式抵抗制御MMC-HBM-5(日立製作所製) 主電動機:HS-510-Crb 直流1500V |
4.2008年-モンキーパークモノレール線廃止2007年12月17日、名古屋鉄道はモンキーパークモノレール線を2008年12月28日付けで廃止することを発表しました。名古屋の地で残存した日本国内最古のALWEG式モノレールは、その生涯を閉じる事となりました。 廃止後は、岐阜バスコミュニティのバスによる輸送が実施されています(犬山駅〜)。
廃止後のモノレール車両の状況は以下の通り。
MRM102(先頭車) 日立製作所笠戸事業所にて展示(山口県下松市:一般非公開) |
5.その他(参考)犬山モノレールは、名古屋鉄道&日立製作所が国内へのALWEG式モノレール導入に乗り出した初期路線でした。この事から、国内ではその後いくつかのモノレール計画が立ち上がりました。 東京モノレールや日本跨座式シリーズの様に今日まで活躍する路線が生まれる一方、 建設される事なく”未成線”となる路線もありました。 5-1.名鉄長良養老港モノレール線名古屋鉄道主体によるもう一つのモノレール構想が「長良養老港モノレール」、総延長30.17kmの計画路線でした。当時名古屋鉄道は、犬山モノレールを含めてモノレール路線の建設を推進しており、今日までにいたる東京モノレールもその一つであると言えます。 それらの計画の中で、名古屋鉄道主体による長良と養老港を結ぶモノレール計画がありました。 当時数多く存在したモノレール計画の中で、比較的現実味を帯びていた路線でもあります。 しかし、当モノレールは建設へは結びつく事なく”未成整線”となりました。 5-2.熱海モノレール[日本国内編 熱海モノレール]上述した長良養老港モノレールとは違い、熱海モノレールは当時の東京モノレールが主体としたモノレール路線計画です。 ただし、当時東京モノレールは主要株主に名古屋鉄道が付いていました。 熱海モノレールは熱海駅からアタミロープウェイまでを結ぶ、1.8kmのモノレール路線として計画されました。 結論として、完成したのは第一ビルの地下駅のみでその後進展せず、”未成線”となりました。 諸説あるようですが、当時の東京モノレールが開業後の経営悪化により資金調達が難しくなった事が一因にあると言われています。 |
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